総社の由来

総社は初め、仁徳天皇(313~399)の皇妃八田皇女の名代として八田部(八部)と呼ばれ、その後、大化の改新(645)によって、吉備国が備前(和銅6年に美作国が分かれてできる。)、備中、備後の3ヶ国に分れて、備中国の国府が総社市金井戸に置かれ、国司が中心となって、祭政一致の政治が行われていた。

 

その後、平安末期になると、国司の力が弱まって、国内の豪族の勢力が強くなったので、国司が毎年国中の312社(末社を合わせると324社)を巡拝することが困難となり、その上巡拝の煩わしさを避けるため、国府の近くに社を建てて神々を合祀したので、この社を総社と呼んだ。

 

戦国時代ごろになってから、総社を総社宮とか総社大明神と呼ぶようになり、社の総社が地名として呼ばれるようになって、八田部の枝村として総社村となった。以後、明治8年に八田部村が消えて、総社村となり、続いて村の発展とともに総社町となり、昭和28年に施行された町村合併促進法によって昭和29年3月31日近郷の村々と合併して総社市となった。